機動戦士vガンダムの評価は?ファンは絶賛!富野が最低と語る理由

機動戦士(ヴィクトリー)vガンダムは宇宙に存在する移住コロニーが実質上独立化している世界の中、サイド2に存在するザンスカール帝国が自分達の主義を押し通しながら、地球権征服を掲げたため、反抗する組織「リガ・ミリティア」が阻止するストーリー。

また機動戦士vガンダムの冠が付いている「vガンダム」はリガ・ミリティアの正義の象徴として、後に量産、後継機となり、主人公で最年少ニュータイプ、ウッソ・エヴィンはザンスカール帝国の軍隊「ベスパ (BESPA) 」から守るために自ら搭乗して戦うことになる。


富野由悠季氏はこのガンダム作品を「一番嫌いなガンダム」と公言し、自らに対し厳しい評価でDVD-BOX発売でも買わないように!と言っているのですが、ファンの間では「逆境や切迫感が伝わってくる」とか「富野氏の本気さが見られる」など高評価の様子。


では何故このような食い違いが発生しているのか?


この点を中心にいろんな視点で分析していきたいと思います。

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目次

・機動戦士Vガンダムを富野由悠季が一番嫌いなガンダムと公言する理由。
・これが原因?ファンは高評価と思えても富野が最低!と思う描写とは?
・カテジナ・ルースの行動は富野由悠季の心の叫びだった?
・結局!富野由悠季は機動戦士Vガンダムで何が言いたかったのか?

機動戦士Vガンダムを富野由悠季が一番嫌いなガンダムと公言する理由

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機動戦士Vガンダムは機動戦士ガンダムΖΖ当初に描いていた「明るいガンダム」を主体に、ロボットアニメの原点である楽しさや当時子供に流行していた自分が主人公になって冒険するゲーム方式であったロールプレイングゲーム(RPG)を理想としていました。


この理由も今までのガンダムシリーズを知らなくても理解出来るよう、13歳で最年少
ニュータイプであるウッソと同じ目線で見て欲しい!
そういった富野氏の思考であり、

彼の年代にしか思いつかない、トリッキーな戦術や戦争のしがらみから逃れられない
大人へのメッセージとして旧作品からの払拭
として描こうとしたものでした。


しかし、上層部の考え方では、商業的不振に終わったものの、ファンには高評価だった機動戦士ガンダムF91の練り直し作品であり、機動戦士Vガンダムでも同系統のモビルスーツ(以下、MSと呼称)や戦隊物を思わせるような量産化、地上を走る戦艦を出すために、

つじつま合わせのバイク艦隊、無駄に変形させたMSの数々といろんなものを盛り込みすぎた結果、当初の理想とは全く違うものが出来てしまう。


そういった部分から主人公機のVガンダムが第4話まで登場しないので、第1話と差し替えて変更など、現場でも殺伐とするほど混乱が大きく、理想と違うものを押し付けられる葛藤が上層部の関係性を悪化させることや、今までの心労がたたったことから、


この作品以降!富野氏はうつ状態が5年ほど続き、数年のガンダムシリーズは弟子が担当。


こういった理由から自分自身の不甲斐なさや作品を見たときの出来の悪さで、

「このDVDは、見られたものではないので買ってはいけません!!」


とDVDボックス発売時には付属のブックレットに掲載されており、今でも「一番嫌いなガンダム」と公言するのも、こういった裏事情が悪影響になったからかもしれません。

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これが原因?ファンは高評価と思えても富野が最低!と思う描写とは?

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監督である富野由悠季自身が辛口評価で出来が良くないと公言しているせいもあってか?

評価を気にしていいものを手にしたい!という消費者からは敬遠されている部分が多いようですが、現実にはファンほど何故これが最低なのか?理解出来ないとコメントに記載するほど、評価が二分しているので、ファンとしてもこの点が不思議で仕方がない。


この理由も当初、富野氏が目指すロボットアニメの原点であった「楽しいロボットアニメ」「主人公が中心のシンプルで漫画を読むような展開」で楽しめるものを目指していたため、

1クール目もガンダムが宇宙!というイメージを払拭したい、15話くらいまでがヨーロッパが舞台なのですが、それではガンダムらしくない!と横槍を入れてきた上層部により、当初ガンダムとして受けが良かった機動戦士ガンダムF91の「戦争の悲惨さ」を描写。


このため宗教を意識した民族主義から、禁じ手と思われる描写が多く、ギロチンで公開処刑されるシーン(と言っても実際にはギロチンが使われたときの人々の描写ですが)敵がコックピットだけを狙いパイロットを焼き殺す、挙句の果てに民間人の虐殺を楽しむなど、

13歳をターゲットにしている割にはこういった部分や中には性的な表現をしているものもあるので、富野氏に取っては理想と違った作品なので最低!という感覚かもしれません。


しかし機動戦士Vガンダムを見たガンダムファンからは、

「異様な切迫感で迫りつつも、活劇しているアニメーション」
「玩具っぽさ」を強調するように強要された監督・富野氏は
 この作品で本気でスポンサーに逆襲しようとした」
「商業主義的な要請に対して、作家が本気で逆襲している
 切迫感が最後の最後まで続く」
「主人公ウッソと絡んだ主要キャラクターがすぐに死んでしまうが
 これが戦争であり、実際の戦争はこれ以上に残酷だからこのような
 描写で訴えた富野氏の表現力は凄すぎる」
「あまりにも衝撃の鬱展開の連続に、心を深く抉られた感じがしました。」
「シャクティの残酷な展開から目をそらさずに、見てくださいと
 いう予告の感覚から思わず目を背けたくなりながらも見てしまう。」


などリアルな部分が読み取れることから、富野氏が今でも「一番嫌いなガンダム
と公言しながらも、ガンダムファンを増やす要因となっているのでしょう。

カテジナ・ルースの行動は富野由悠季の心の叫びだった?

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機動戦士Vガンダムで主人公ウッソ・エヴィンがVガンダムの合体する小型戦闘機「コア・ファイター」に乗り込む理由も、幼馴染である少女、シャクティ・カリンや憧れのお姉さんであるカテジナ・ルースを地球に攻めて来るザンスガール帝国から守るためなのですが、

カテジナは何度も襲いくる戦火の中でただ単に戦争を楽しんでいるのではないか?とウッソや大人の行動に疑問視。最後には敵になってさまざまな主要キャラを殺していく。


これもまたウッソ達が住んでいたポイント・カサレリアでMSシャッコーのテストパイロットをしていたクロノクル・アシャーが成り行きからウッソにシャッコーを奪われた恨みからライバル視、カテジナを誘拐することで勝てるという伏線の結果だったのですが、

家庭を顧みない父、それをいいことに愛人を作っていた母、一方的にペンフレンドとしてメールを送りつけてくるウッソ、ウッソを戦争の道具として駆り出す大人達など、鬱積が溜まっていたことから、成り行きで誘拐されたクロノクルにすがるよう協力することになる。


現実にはクロノクルは粗暴で姉のマリアがいないと何も出来ないことから頼れるものは何く、絶望から尋常なスピードでMS操縦技術を得ることで、ウッソに取って最大の敵になった。


若干ネタバレとなってしまいましたが、リガ・ミリティアに属している女性だけの部隊「シュラク隊」が全て死亡していく点も、周りと協調が取れず、理想を描けずもがくカテジナの行動が当時の富野氏自身を示しているようである。


このことから「皆殺しの富野」を再度発動させるように自分が描いた葛藤と戦いながら戦争への悲惨さを描写。筆者の視点からすれば、そんな風に感じて仕方がない。


富野氏はこのことについて早くから構想があり、

カテジナは何としても殺したくはないが、主人公であるウッソの敵になって
しまっているのだから、劇の最後を飾る上で殺さない代わりにペナルティを
与えたものを描いている。


最終的にカテジナはV2ガンダムの「光の翼」の閃光が原因で最後には盲目となり、記憶を失いながら、故郷のウーイッグに立ち乗りタイプのホバーバイクで戻る最中、シャクティと知らずに再会するシーンも、悲惨な戦争の末路を描いているように思える反面、


実際には機動戦士Vガンダムでうまくいかなかった富野氏の心の叫びかもしれません。

結局!富野由悠季は機動戦士Vガンダムで何が言いたかったのか?

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機動戦士Vガンダムのおもちゃやプラモデルはこれまでの倍以上に売れたことに対し、富野氏がは一番嫌いなガンダムと公言していることが響いてか?主人公と同じかそれに近い小学生ファンを開拓して、マニアや高齢化していたガンダムファンを引き戻そう!

そんな思考があったようですが、結局は難解かつ残酷な戦争描写のせいで、従来のガンダムファンが好む展開となり、機動戦士ガンダム 逆襲のシャアと同等レベルということから、次回作がお流れ!という結果になってしまった。


この理由も富野氏が当時スポンサーだったバンダイがサンライズ買収を予定。


スポンサー思考で番組が展開されていくことを知らず、ガンダムの再燃からのおもちゃプラモデルの売れ行き向上を狙っていたのですが、富野氏が自分の思想と違っていることに反感してしまい、自分が思う作風から大幅に変更となりめちゃくちゃになってしまった。


それによりサンライズ上層部との中が険悪になったり、裏事情を知った後ほど上層部からの謝罪が一切無かったことから反感しているうちに変な作品になってしまったらしい。


そのことを主人公ウッソに立ち向かう敵として、理不尽で残虐なことでもやってしまう大人達や、憧れのお姉さんであったカテジナの裏事情を描くことで、人生に対する葛藤を描いていると思えるのですが、これが原因で健康を害するまでに陥ってしまいましたので、

思念は暴走しすぎると「諸刃の剣」のように自らも傷つける代償になるという。


そんな部分がこの作品にはこめられているのでは無いでしょうか?

レクタングル(大)
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