機動戦士Ζガンダム 星を継ぐ者が映画で酷評?見どころ含めネタバレ

機動戦士Ζ(ゼータ)ガンダム A New Translation (ニュータイプ)-星を継ぐ者-は
1987年に放送された機動戦士Ζガンダムを劇場版第1弾として作成されたもので
あり20年の経過から「新訳版」として当時監修中心だった富野由悠季氏自らが脚本。


そのことで当時の機動戦士Ζガンダムはもちろん!ガンダムファンでないアニメファンまでもが、フロモーション映像を見て「カッコいい!見てえ~」となったため、話題沸騰したことを筆者は覚えているのですが、現実には賛否両論がかなり激しく、ガンダムファンほど、


あまりの酷すぎる出来に続編を見る気が失せた!」とか「金の亡者なのでは?」など、

いろいろと酷評が上がっていることから、損をしたくないから見たくっても見れない!


そんなアニメファンもまだまだ増えていることから、今回はこの点を中心に何故
このような賛否両論の意見が出るのか?を掘り下げて見ていくことにしましょう。

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目次

・機動戦士Ζガンダム星を継ぐ者は何故映画上映で酷評となったのか?
・新訳版として描かれた機動戦士Ζガンダム星を継ぐ者の見どころとは?
・富野由悠季は機動戦士Ζガンダム新訳版として何がいいたかったのか?

機動戦士Ζガンダム 星を継ぐ者は何故映画上映で酷評となったのか?

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現在でも富野氏に取って「良いも悪いも思いいれのある作品」ということで、ガンダムファンの大半は機動戦士Ζガンダムに思い入れがあり、これが災いして「新訳版」として作成された、機動戦士Ζガンダム 星を継ぐ者が酷評になるのも、いろいろと違和感があるため、


当時、機動戦士Ζガンダムでファンになった人ほど「何じゃこれ?」となってしまう。


この作品を見る価値無しまで言っているファンほど以下の点に違和感を感じたからだと
同じガンダムファンである筆者もそう思えてしまうので、この点は否ない結果である。


※内容を知らない方は若干、ネタバレとなるのでご注意。


ひとつ目は全50話のうち第1話の「黒いガンダム」から第14話の「アムロ再び」までの部分をたった90分に編集していることから、3倍速くらいの速さで見ているため初めて見る人はもちろん、内容を知っているファンにも理解しづらい。


これもまた時間内に収めるということや、なるべく暴力的な表現を避けたいために、主人公
カミーユ・ビダンがティターンズのジェリド・メサ中尉に「女の名前なのに男か?」というところから、暴力を振るい、そこから憲兵に連れて行かれ、流れでエゥーゴに入った。

そういった経歴が一切カットされ、大人に対する反抗的な態度が温厚な少年として修正されることで、この先の悲惨な部分が変更されていることや、カミーユの態度のせいで、シビアで冷たい!というイメージが強かったクルーが、新訳版では行動を見守っていこうという、


全く違う雰囲気から往年のファンほど妙な違和感を感じてしまうのだろうと思える。


その他、反地球連邦軍組織エゥーゴの地球活動を助ける「カラバ」のハヤトやベルトーチカ
を含めたスタッフ一同がすでに知っていて円滑に進むなど、TV版を見ているほど、首を
傾げたくなるくらいスムーズにいくので、もはや別物では?と思えてくる点は仕方がない。


むしろこれだけの膨大な量を90分で編集した富野氏の技量は凄いの一言なので、寛大な目線で見てもいいと思えるのですが、それを差し引いても、この作品には最大の欠点が生じているために、第2作、第3作と続いていくに連れ、入場数が激減したのだと思えてくる。


それが「エイジング」という作画方法を意識しすぎて使用したことである。


新訳版」なら全て新作カットで映像を作成すれば良かったと思え、富野氏の思考では全部新作にするとΖガンダムでなくなるためという理由から、「エイジング」と呼ばれる方法で、

当時の作画部分と新作をつなぎ合わせ経年変化として質感近づける方法を取っている。


しかしこの方法が逆に酷評の主な原因となっており、ハイビジョンに慣れきった現代人には
無駄にノイズを入れて作画を汚くしているだけ!という部分から、違和感以上につぎはぎだらけで資金難で作成出来なかったと勘違いするほど、酷い出来に思われてしまう。


特にエゥーゴが敵である地球連邦軍の本拠地「ジャブロー」に突入するシーンは丸々旧作品の流用であり、その間に当時の作画監督の北爪氏と新訳版の安彦氏のレタッチの違いや、


まだ全部新作のほうがましだった!」という点が強く感じさせてしまうことから、


ジェリドなど、別キャラが出ているような違和感が強いので、無駄にこだわった手法
が酷評を与えてしまった結末となり、後作品に響いてしまったのでは無いでしょうか?

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新訳版として描かれた機動戦士Ζガンダム星を継ぐ者の見どころとは?

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現在でも機動戦士Ζガンダム星を継ぐ者は単なる総集編とか安い編集の焼きまわしなど
酷評のほうが多いことから良い部分が埋もれてしまっているのですが、ファンであるほど、

頭ごなしに「悪い」と決め付けるのは、底の浅い人間だ!と言っているようなもの。


また数々の偉業作品を残している富野由悠季氏が単なる総集編で終わることは無いと
思えるので、この点をしっかりと読み解かないと一体何を伝えたかったのか?


わからないまま知らないうちに暴挙に乗ったものと同じ末路をたどることになってしまう。


筆者が圧倒的に凄い!と思えたのが、数々のモビルスーツ(以下、MSと呼称)の演出。


今でもそうですがバンダイのガンダムプラモデル(略してガンプラ)は一番小さいサイズである1/144でも普通に組み立てるだけで、カッコよく仕上がるため、富野氏の思考からすると、「ここまでやらないとプラモデルに負けちまうぞ!」という喝が飛ぶくらい、


リアル描写や迫力のある構図となっている分、作画が綺麗に見えないのが非常に勿体無い。


特に凄いのがカミーユが搭乗するガンダムMKⅡとライラ搭乗のガルバルディβとの戦いや
マラサイ出撃時の重量感!これらの質感が完全新作になって細部まで表現されていること。

精密なコックピットを演出するためにコンピュータグラフィック(CG)を駆使したり
終盤に出てくる変形MSギャプランやアッシマーの空中戦は迫力物なので目が離せない!


また連邦軍のブラン大尉が乗るアッシマーへアムロが飛行機で突撃して存在感をあらわに
するまでの部分は完全新作であり、17分に渡って空中戦を描いており、ラストのアムロ
とシャア(クワトロ)が再開するシーンは評価してもいいと思える部分である。


複雑に入り組んだ人間関係やそれぞれの立場での思考を主人公カミーユの両親が死亡する
シーンや、クワトロとしてのシャアとの出会い、立場が入れ替わってのジャブロー突入への
大気圏降下作戦。1年戦争キャラとの7年後の出会い。

こういった部分を集約して、20年の歳月で新訳版として描かれているので、ファンで
ある以上は酷評に流される前に、自らの目で確認したほうがいいのかもしれませんね。

富野由悠季は機動戦士Ζガンダム新訳版として何がいいたかったのか?

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賛否両論の意見を筆者の視点で中立に判断した結果、このような形となったため、あなた
からすれば「それは違う!」とか「そうかもしれない」という点が出てくると思います。


また分析をするほど、リメイクでも新訳版無く、第3の別物という印象が強いため、この点が受け入れられないほど厳しいのかもしれませんが、これもまた富野氏の「20年経過した地点で、機動戦士Ζガンダムを作成したらどうなるのか?」という部分。


キャッチコピーの「再会は躍動する魂。とき放て、”Ζ”!!」を示すように、20年前の
自分に対しての挑戦と解釈が絡んだ結果!
このようなものになったのだと思えてくる。


この理由も富野氏は機動戦士Ζガンダム星を継ぐ者を製作する前に、20年前に演じた声優が本当に最適なのか?そこまで考えていたらしく、カミーユ役の飛田展男さんにオーディションと当日の変更もありうるという点から、当時のイメージとの葛藤があったのだろう。


そもそも機動戦士Ζガンダムは機動戦士ガンダムであった部分の延長をアムロやシャアが傍観者としてガミーユの行動を見ながら、自分勝手な思考や怨念といった感情を持つほど、業を背負うように悲惨な運命になっていくことから、似たような光景が無駄と思えるほど多い。

これもまたスポンサーであるバンダイの陰謀で無駄に長くさせられ説明も長くなるため
」か「」のどちらかで説明することにしますが、こういった裏事情や意味不明の
怨念返しの描写を、∀(ターンエー)ガンダム以降の作品で疑問視する部分から、


単純な戦争娯楽作品として成り立った機動戦士Ζガンダムを良しとしなかったのだろう。



まあこんなカッコいいプロモーション動画があれば勘違いしてしまいますしねえ~


そのため富野氏は「自分自身に政治力がもっとあれば」と語ると同時に、

復刻映画にするつもりは全くなく、主人公カミーユ・ビダン役の飛田展男で
さえオーディションで改めて選び直した」「当初はアムロやシャアも含めた
キャスティングの総入れ替えも検討していた」


と語っており、クワトロ大尉はどこかライトな形で自分自身を見据えるような演技。

アムロはこの地点では7年間の幽閉生活で引きこもっていたため、いじけた部分が強いが
後々、外の世界と向き合い、ブランクさを感じさせない復活劇を演じることになるので、


こういった部分をしっかりと読み取れないほどリメイクによる駄作に見えてしまう。


それを演出で感じさせるのがプロの仕事だ!と言われるとなかなか厳しく昔のΖガンダムは
本当にそれで良かったのか?
という葛藤が富野氏に取って新訳版と感じているのですが、

これをリメイクと捉えるか新訳版として捉えるかで評価は違うのでは無いでしょうか?

レクタングル(大)
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