機動戦士ΖガンダムIII A New Translation -星の鼓動は愛-は劇場版機動戦士Ζガンダムの
第三部であり第38話のレコアの気配から第50話最終話の宇宙を駆けるまで99分に編集。
富野由悠季氏の新訳を加えた作品なのですが、ここでも賛否両論の意見が大きく、ガンダム
ファンであるほど酷評の嵐となり本作品のメインであるメールシュトローム作戦を凌駕しそうな勢いで拡散しているので、興行収入もⅡ恋人達の2/3以下になっている。
特に最後からエンディングに関しては視聴者の感覚からか?意見が大きく
分かれておりここでの新訳が作品の評価に大きく響いているようですので、
今回はこの点を中心にいろいろと疑問点を掘り下げて分析していきましょう。
目次
・機動戦士ΖガンダムIII星の鼓動は愛がラストまで違和感満載な理由。
・機動戦士Ζガンダム劇場版ラストは何故賛否両論に分かれてしまうのか?
・機動戦士Ζガンダム劇場版で富野由悠季がTV版で言い残したこととは。
機動戦士ΖガンダムIII星の鼓動は愛がラストまで違和感満載な理由
前作の機動戦士ΖガンダムII恋人たちのストーリー展開が名(迷)セリフを中心に組み立てファンのウケを狙いすぎたせいか?あまりにも酷評だったため、今回はエゥーゴ、ティターンズ、アクシズの宇宙での「三つ巴」戦を主体にして戦争を終結させるという、
この1点に全てを注いていることから戦闘シーンの大半が圧巻となる新作となっている。
特に物語の主軸を占めるハマーンとシロッコの対決は流石と言えるくらい劇場版用に書き下ろした部分が生かされており、キュベレイVSジ・O(ジ・オー)アクシズとティターンズの
代表戦を思わせるくらいに魅了させるものである。
また間に入るクワトロ(シャア)の百式(ひゃくしき)も全ガンダム映像作品の中で1、2を争うものとなっているため、思わず「おおっ」と思う演出が多く、ワイヤー付のグレネードを装備したΖガンダムの描写やロングライフルを持ったマラサイは評価出来る。
しかしガンダムファンであるほど機動戦士Ζガンダムの名シーンや映像、世界観を壊さずに
新訳がどう解釈されているのか?この点を気にしている分、99分という時間はあまりにも短く、展開が速すぎて支離滅裂。
全体を通しても旧作部分と新作部分の違和感をなくすために使われた技法「エイジング」は
どう考えても全部新作でやったほうがいいのでは?というファンの意見が強いので、この点が作品の足を引っ張っているとしか言い様がありません。
特に以下の点がファンとしても違和感が残ったように思えて仕方がない。
※若干ネタバレがありますのでご注意!
・クワトロがシャアとしてティターンズの暴挙を暴く
「ダカール演説」がバッサリ切られ暗黙の了解となっている。
・カミーユに取って大事なロザミアの再登場と敵として
倒さざるを得なかった悲しみを一切演出していない。
・その割にTV版同様にカミーユの味方として幽体に
なって出てくるので無茶苦茶な展開でしかない。・突然のアクシズ(ネオジオン)登場でストーリーは大混乱
これが原因でさっぱり理解出来ないストーリー展開。
・ヘンケン艦長が戦艦ラーディッシュを盾にしてエマ搭乗の
ガンダムMKⅡを助けて戦死するシーンが丸々カット。
(ヘンケンやエマがいつの間にか死んでいる?)
・アーガマのクルーがヘンケンとエマを冷やすシーンは
正直言って気持ち悪いだけで伏線としていらない。・カミーユが幼馴染のファのお尻をさりげなく触るシーンも
不快感になるのでいらない。そんなキャラではないし。
・ジェリド戦死後のカミーユのセリフは正直ファンでなくても引く。
時間の関係上カットせざるを得ない部分は理解出来ますが、本作品でも旧作品部分と新作品部分のつながりに違和感がありすぎ、話が端折過ぎるので、初めて見る人ほど理解出来ていないのでは?と懸念してしまう点が強く出てしまっている。
また時間の成約があるのならば、重要な部分をしっかりとつなぎ合わせそれを完全新作として全て書き上げるのがプロだ!と思えるのですが、結局のところ登場人物の人物像といった大事な部分が欠けており、背景となる組織や人間関係が描かれていない地点で、
筆者としてはたった99分で機動戦士Ζガンダム劇場版を作成するのは無理なのでは?
そう思えた部分が強く出ていますので、この点が理解出来ない限り、今後の名作も
映画化しないほうがいいと思えて仕方がありません。
機動戦士Ζガンダム劇場版ラストは何故賛否両論に分かれてしまうのか?
機動戦士Ζガンダムのラストはカミーユの繊細すぎる精神から、自分勝手な大人達に
反抗することでエゴイズム(利己主義)から抗争で大事な人が連鎖して死んでいく。
そんな出来事が苦悩や悲しみとなり複雑に絡み合う人間関係の中でニュータイプとして
覚醒!死んでいった人の業を背負い、その業を生んで傍観者になり切って戦争を楽しん
でいたシロッコを倒すことで意識を引きずりこまれ、最後に精神崩壊してしまう。
アムロやシャアなどは傍観者として見るしかない現実からこの後の逆襲のシャアにつながるので、TV版であるこの最後は意味のあるものだからか?ファンの間でも戦争に対する悲惨さや人としての苦悩や悲しみとして、後世に伝える名作と言われているのですが、
劇場版のラストでは最初からカミーユの性格が違い、周りは未発達な少年を見守る大人としての位置づけで進んでいくので、シロッコを倒しても精神崩壊するどころかハッピーエンドで終わり、違和感のある感じでGacktさんの曲でエンディングを迎えてしまう。
筆者が見た感想としては「これって機動戦士ガンダムF91のラストと同じじゃん!」
そう思ってしまったのですが、ファンの間でもこの点に関しては賛否両論大きく
分かれた意見となっているので、この点からも討論の種となってしまっている様子。
劇場版肯定派の意見では、
「20年以上経過した新訳が同じ結果ではあまりにも悲しすぎる」
という点が大半を占めており、人と人とがどうやってつながっていけばいいのか?
この点をカミーユの視点で描いており、前向きな気持ちで生きる原動力となっていることから、感覚は∀ガンダム(ターンエーガンダム)の思考に似ているのかもしれない。
そのため新訳版を受け入れるほどTV版は悲惨すぎて見られなくなると思える。
それに対し、TV版と同じくカミーユの精神崩壊が正式なエンディングだ!と譲らない人が
いるのも、ファンとして機動戦士Ζガンダムの世界観を重視しているからこそ、新訳の
ラストが受け入れられない!ということもファンである筆者は痛いほど理解出来る。
ガンダムファンとしての機動戦士Ζガンダムは繊細な性格によって戦争に巻き込まれた
カミーユがその性格が災いして両親やフォウ、ロザミアなど大事な人を次々に失って
いく理不尽さと悲しみ。
そういった戦争を生む傍観者であるクワトロやハマーン、シロッコなど複雑な関係性から
カミーユがや仲間達が苦悩し、それぞれの想いがΖガンダムのバイオセンサーに反応。
死んだ人の想いを乗せながらΖガンダムが抗争の種になるものを次々と粛清していく。
特にキリマンジャロでのフォウの死は「逆襲のシャア」カミーユの精神崩壊は機動戦士ガンダムΖΖに話につながっていくので、劇場版新訳のカミーユのセリフ「女達の所へ帰れ?」から
精神崩壊しないわ、大きな犠牲を伴っているのに無理やりのハッピーエンド。
これではファンでなくても酷評したくなる気持ちもわからなくないと思います。
筆者としてはガンダムファンであるため、機動戦士ΖガンダムIII 星の鼓動は愛はあくまで
別物だ!と考えていますが、思い入れが強いほど賛否両論な意見となったのでしょう。
機動戦士Ζガンダム劇場版で富野由悠季がTV版で言い残したこととは
富野由悠季氏が「機動戦士ΖガンダムIII 星の鼓動は愛」をこのような新訳にした
のも予算や大人の事情という点が非常に大きく関係しているように思えるのですが、
ファンであるほど、TV版への愛着があり、思い入れが強いのでよほどいい出来で
ないと納得が出来ないことは今までの経験と失敗でで理解出来ているはず!
富野氏がインタビューで最強のニュータイプは誰?と答える際も、
劇場版のカミーユ・ビダンこそ究極のニュータイプ
ということを語るのであれば、その背景や人間関係を全面新作カットで描いたほうが
炎上するまでの酷評にならなかったと思えるのですが、このことに関しても、
ラストの表現なども個人的にはあっていいと思うのですがキャラクター
ってのは、おそらく監督が考えてる以上に生きてる存在なんですよね。
と語るように富野氏が描いていた人の悲惨な末路よりも人の温もりや人間関係の大切さを
「ニュータイプ」というもので表現することで、人がどう生きていくべきなのか?
これがTV版で言い残したかった20年前の忘れ物だったように感じて仕方が無い。
この理由もキャッチコピーである、
「誰も知らないラスト…新訳Ζ完結編。」
「人は虚無の宇宙にぬくもりを見つけられるか!」
という部分で見直すとかろうじて解釈出来るが作品というのは本来そのものを見て
聞いて、感じて、思えるものなので、こういった感想もこじつけでしかない。
だからこんなプロモーションで綺麗ごとを語れるのだと思えてしまう。
こういったことがしっかりと汲み取れる作品内容であれば劇場版が新訳でもしっかりと
評価されるべき作品であったようにも思えるのですが、機動戦士Ζガンダムの醍醐味で
ある複雑な人間関係やエゴイズム(利己主義)からの脱却をしっかりと描けない限り、
偉大な作品の過去の汚点を消すだけにしか見えない結末にしか思えないでしょう。
それが「機動戦士ΖガンダムIII 星の鼓動は愛」で感じた筆者が思う唯一の感想です。