ブレンパワードは富野由悠季氏が精神的疲労で機動戦士Vガンダムから一線を退いていた5年ぶりに作成されたアニメであり、美しい自然を基本とした作風で、残虐な描写を極力押さえながら「ブレンパワード」と呼ばれるロボットを通し、人間模様を描いている。
基本的設定は自然災害で荒れ果てた近未来地球の海底で発見された「オルファン」と呼ばれる遺跡から生まれる巨大人型兵器「グランチャー」とそれらの敵「ブレンパワード」との戦いを描いているのですが、ファンの間では有料放送であるWOWOWであることや、
一度見たくらいでは理解不能で2度3度見ないとわかりづらい複雑な人間模様から、時代の谷間に埋もれてしまったという感覚が強く、今でも隠れた名作という部分が否めない。
またこの作品が富野由悠季氏「第二のデビュー作」と自ら語るくらい以降の作品に多大な影響を及ぼしているのですが、何故このような名作なのにあまり知られていないのか?
多かった疑問点を中心にいろいろと分析していきましょう。
目次
・ブレンパワードが有料放送であるWOWOWになった本当の理由。
・何故ガンダムファンほどブレンパワードに違和感を感じるのか?
・ブレンパワードのジョナサンは何故!富野節の名言の宝庫なのか?
・ブレンパワードで表現される富野由悠季が目指したリバイバルの意味。
ブレンパワードが有料放送であるWOWOWになった本当の理由
ブレンパワードの世界観は地球を自分達の傘下に制定させようとするオルファンが生み出す
グランチャーとそれに対抗するノヴィス・ノア側の主人公伊佐未 勇(いさみ ゆう)達
ブレンパワードとの間の複雑な人間模様が本作品の見どころになっているのですが、
それだけならば別に有料放送であるWOWOWにする理由は無かったと思える。
そのためファンからも「地上波で放送すればもっと評価されたのに!」という意見が多いようですが、この理由も視聴者のターゲットを富野作品を本当に見たい大人としているため、気になる人は見てください。という感覚でご縁が無ければそれでいい!
そんな感覚で自由な発想から来ていることから、有料放送にしたのだと思える。
その証拠に従来のアニメでは絶対に出来ない女性主要キャラ達が一糸まとわぬ姿での
オープニングとなり、主人公どころかロボットであるブレンパワードすら存在しない。
ストーリーでも主人公が伊佐未 勇という少年ながらも、ほとんどの主格は女性であり、
それぞれが母であり姉であり、祖母であり妻でありながらも「女」としての立場からの
深い葛藤や自我から、大人のリアルな思考や恋愛像を露骨に描いていることが主な原因。
一応アニメということなので性的な描写は無いのですが、それでも子供には見せられない不倫関係や憎悪に似た愛情など、一言では語りきれない複雑すぎる関係性があることから、これらが理解出来て、なおかつ富野氏に賛同出来る人でないと受け入れられない。
そんな感覚から必然的にWOWOWの有料放送になったのだと筆者はそう感じている。
特に富野作品では毎回のようにオープニングとエンディングにその作品で言いたいことが
こめられているのですが、富野由悠季氏が語るブレンパワードで目指した部分として、
自分たちは子供たちを「親なし子」にしてしまったのではないか?という
危機感から「人と人とが絆を結ぶとはどういうことか」を示そう。
と称しており、その表現を作品として見たWOWOW制作者側も、
「普通のテレビじゃ、ここまでやれない。」
と加入契約促進ポスターで訴えたくらいなので、ブレンパワードが有料放送でしか
流せなかったのも、このようなことが理由だったのかもしれません。
何故ガンダムファンほどブレンパワードに違和感を感じるのか?
富野作品の復活!ということでかつての名作!機動戦士ガンダムと比較するガンダムファンが今でも多いようなのですが、大体の人は作品を見た後に違和感を持ってしまう。
作品を見るといつもの「富野節」と呼ばれる名言も多いし、富野由悠季氏独特の複雑な構成でマニア向けのような感覚もするのですが、見れば見るほど違和感に感じ、ガンダムファンほどそう思えるのですが、この理由も構成が全く違うからだと筆者は感じている。
大きな違いはこれまで多かった1話完結系というよりも「続きが見たい」と思える部分。
違和感を感じるのも1話ことのパンチよりもまとまっている感じがとても強く「この回って本当は必要無いのでは?」と思えることが何度もあるのですが、富野節と呼ばれる独特の言い回しや、先を見るとやはり必要だったと思えるような展開が多く使われている。
そのため必然的に「もっと見たい!」と引き込まれる世界観があるのですが、この点をさらに素晴らしい音楽でカバーしており、機動戦士Vガンダムのときから意識していた音楽と場面をシンクロさせるという部分がところどころに採用されている。
特にガンダムファンが一番違和感を感じるのが「ブレンパワード」の存在価値である。
ブレンパワードでは主人公が乗るロボット、ブレンパワードと敵が乗るグランチャーとの戦いが頻繁に繰り広げられるのですが、ガンダムのように必死に敵を倒して生き残るというドンパチよりも、内面にある精神のようで生き物の感覚で会話するように接する。
そういったシーンが多いことから人が死ぬシーンがほとんどなく、人間の内面にある
感情や思考をぶつけ合う感覚で対戦するため、これが違和感の証拠だと思えるのですが、
ブレンパワードは今でも視聴回数によって感想が変化するので、この点は
見たものだけが真の回答として得られる、未知なる領域なのかもしれません。
ブレンパワードのジョナサンは何故!富野節の名言の宝庫なのか?
ブレンパワードを見れば見るほど、これでもか!と言えるくらい富野節と呼ばれる、富野由悠季独特の言い回しが多く、これらが複雑な人間関係をさらに複雑にしては、ドロドロとした人間関係や、キレイごとだけでは済まない大人の世界を描いている。
富野氏としては人としての「陰」と「陽」をキャラを通して感情のままに表現しているのだと筆者はそう感じているのですが、その中でも敵キャラであるジョナサン・グレーンが切れていると思えるくらい、富野節で熱く語っていることから一回だけでは理解しづらい。
富野節とは「あなたに分かって?」など語尾が変だったり、回りくどい言い方や突然の自己紹介、男性が女言葉を使ったり、不自然なシーンでフルネーム、脈絡のない独り言など、意味不明なセリフや富野氏独特の言い回しを示すのですが、
ジョナサンに至ってもこの点はやりすぎるくらいに強く感じ、
「オルファンのアンチボディが~」とか「オーガニックで有機的な~」など、
理論では考えられないような言い回しが多いことで「翻訳不可能」とか「ブレンは行きすぎて理解不能」などファンからも一目置かれるくらいにぶっ飛んでいる。
筆者が思うにはジョナサンの思考は「親としてどうあるべきか?」というこの作品のテーマでありながら、幼少期の孤独で不幸な体験をした彼自身の思考を、今までの作品で失敗して来た富野氏の思考をシンクロさせたように思える。
キャラ設定としてもマザーコンプレックスを持ちながら、憎しみと愛情が入り混じった感情むき出しのセリフが多く、女性主体で生き方を考えさせられる描写が多い作風の中で、ジョナサンだけが異質を放っているのも、富野節が入り混じったこのセリフが主な要因。
八歳と九歳と十歳のときと十二歳と十三歳のときも僕はずっと!待ってた!
十一歳のときは待ってなかったんか?という突っ込みは置いといて、これがジョナサンが
母アノーアに対し、放った誕生日に祝って欲しい!自分を愛して欲しいという、感情むき出しのセリフですが、ここでもまたキャラに対し、うまく表現出来なかった失態として、
富野氏の思考が富野節として入り混じっていることから、
富野由悠季氏が何故このようなセリフや言い回しをしているのか?
考えながら何度も見ると、ブレンパワードで何をいいたかったのか?
何と無く理解出来るのかもしれません。
ブレンパワードで表現される富野由悠季が目指したリバイバルの意味
結局のところ、ブレンパワードって何?と読んでそう感じるあなたもいるかもしれませんし、見たけど何か難しくって理解出来なかった。そういった人もいるかもしれません。
簡単に言えば後作品になる∀ガンダム(ターンエーガンダム)の基本形となっているため、
こちらを見てからブレンパワードを見ると理解しやすいかもしれませんが、富野由悠季が
目指したのは、再出発として全てを捨てた新しい形であることに間違い無い。
この理由も本作品の重要な部分である「リバイバル」の意味はブレンパワードや
グランチャーを生み出す現象であり、誕生させる際にも、過去への決別のために、
・主要メンバーの声優は若手舞台俳優からの起用で∀ガンダムにも一部兼任している。
・キャラクターデザインには、いのまたむつみさんを採用、以降のガンダムに影響する。
・富野氏が描きたかったファンタジー系や生態エネルギーという概念で11~12m
クラスでブレンパワードを描き、搭乗者により性格を設定して生物のようにした。
と過去にあった殺伐としたロボットアニメからの脱却を目指しながら、自分が言いたい
主張は富野節として、これまで以上に難解な言い回しをしては、復活の兆しとしている。
そのため滅多に自作を褒めない富野氏も「第二のデビュー作」と賞賛するほど気に
入っており、以降の作品の基盤のように思えるのですが、筆者としてはこの作品は、
・・・家族の絆や人の心の優しさを不器用な表現から本質を感じて欲しい・・・
それを独特の演出で描いているので、家族の絆や人の優しさが一体何なのか?
ブレンパワードを通して「心」で感じて欲しい作品だと思います。