機動戦士ガンダム第13話「再会、母よ…」は一見すると本編とは関係ないのでは?と思われそうですが富野由悠季氏の思考は、こういった一見関係無さそうな話ほど、後々につながる実態を鮮明に描いているため、ファンであるほどしっかりと見たほうがいい。
そのためか?今回のお話では劇場版でようやく名前が付いたアムロの母であるカマリア・レイを中心に地球連邦軍とジオン軍の実情をリアルに描いており、それらを知るほど本当に子供向け番組だったのか?
筆者としても疑問視する点が大きいので、今回はこれらを中心に大人の視点で
読み解いていくことにしましょう。
目次
・暴かれた腐った地球連邦軍の実態!見捨てられた兵士達の現実と末路。
・ガンダムでたった1度しか会わなかった母!カマリア・レイの実情とは。
・地上を支配するジオン軍の実情とアムロに対する母性愛との完全断絶。
暴かれた腐った地球連邦軍の実態!見捨てられた兵士達の現実と末路
機動戦士ガンダムの第13話のタイトルは「再会、母よ…」となっているため、一見するとアムロと母親との劇的な再会を思い浮かべるのですが、現実には地球連邦軍とジオン軍の実情がリアルに描かれており、この点を読み解かないと戦争の悲惨さが理解出来ない。
特に地球連邦軍は戦争を仕掛けられた立場であり、地球からスペースコロニーを植民地の
ように支配していたことから30キロ先に故郷があり母に会いにいったことでカイが、
「ヘッ、裏切られたな。奴もエリート族かよ」
と懸念視することから、地球にいるものは全てエリート思考という部分が抜け切れない。
実際に海水浴をしている時でも太陽の光は一ヶ所から降り注ぎ、自然な風を感じながら作られたものではない感覚を味わえるのだから、コロニーからすれば十分恵まれていると思えるのですが、現実には地球を管理している地球連邦軍は、アムロが見た部分だけでも、
戦場にいるものほど腐り切っている連中ばかりで、害でしかないことを物語っている。
この理由もアムロが小さかった頃に両親と住んでいた家にたどり着いた時に、連邦兵どころか士官までもが不法侵入して酒に入り浸っており、完全に任務を放棄していることから周りの民間人もあてにしていないのですが、それ以上にりんごを撃っていたおばさんが、
「お願いです、お金を払ってください。あたし共は
これで暮らしてるんです、お金を払ってください」
と必死になっているのに、肝心の連邦兵は見下げた感覚でエリート気取りで犬のように
扱わせるので、流石のアムロも切れてしまい、殴り合いのケンカになってしまう。
これに対する連邦兵の言い分では、
「てめえみたいなヒヨッコに何がわかるんだ。この町に俺達がいなかった
らな、とっくの昔にジオンのものになってたんだぞ、偉ぶりやがって」
と言っているが、実際には母カマリアがボランティアで勤めるジオン軍支配下の避難民キャンプのほうがまだ人間らしいので、こんな腐った精神の兵隊はブライトに全員修正されるといいと心底そう思えてしまう。
地球連邦軍がこうなってしまっているのも、ジオン軍が戦線を拡大しすぎたのが原因であり、これにより両軍共、補給はもちろん救助さえままならず孤立してしまうという状態になってしまったので、結果として見捨てられた状態から腐ってしまったのが主な原因。
筆者がこう断言出来るのも、りんご売りのおばさんのセリフで、
「生き残った兵隊さんは本部から見捨てられちゃってね。仲間が助けに
来ないもんだからあんな風になっちまって。やだねえ、戦争って」
とあるようにジャブローの高官達はどこまで保身なのか?人間性を疑ってしまう。
実際にこういったケースは太平洋戦争でも起きており、戦争が終わっても敵にビクビクしながら30年以上生活していた人がいることから、ホワイトベースが見捨てられたような状態になってしまうのも、自分達の身を守ることで手一杯だったという結末。
そのためアムロ達のようにモビルスーツなどの決め手がない局地であるほど、補給と救助がない状態での不安から、酒におぼれるものや弱いものをいたぶるものが増えたのも、平和にあぐらをかき、保身で対処出来なかった地球連邦軍の心の弱さなのかもしれません。
ガンダムでたった1度しか会わなかった母!カマリア・レイの実情とは
りんご売りのおばさんが娘コミリーの友達だったアムロを覚えていたことで、戦争の実態や母カマリアが避難民キャンプでボランティアをしていることを知り、小型戦闘機コア・ファイターで向かい、劇的な再開を果たし今までの出来事を話す展開となるのですが、
大人の目線で見るほど母カマリアのおかしな面々が見え隠れしているので、ファンであるほど絶対に逃してはいけない部分であると同時に富野由悠季氏の思考は理解出来ない。
筆者がこう思うのも、戦時下でありながら母カマリアの服装はピンクのワンピースと派手でアムロが再びホワイトベースのクルーに戻る際にもワゴンには愛人らしい男性が乗っているので、カマリアは母親である前に「女」でいたのでは無いかと疑問視してしまう。
表向きには宇宙暮らしには馴染めないから!と地球に残ることを夫のテム・レイに言い、
幼いアムロを託しているのですが、母親が息子を手放してまで地球に残りたがる理由を
考えるほど、当時から男がいたことを物語っているように思えてくる。
ちなみのこのような描写にしている理由も富野由悠季氏がハッキリとワゴン車に乗っている男は愛人だということを語っており、小説版ではアムロが宇宙に上がる前から関係を持っていたらしいので、再開した地点でも母で無く女の感覚であった可能性が高い。
この理由もアムロが受け継いだと思える父テム・レイの「飲めり込みやすい性格」から仕事人間となり、妻に構うことが少なかったからだと思えるのですが、脚本を書いた星山博之さんの意見は「子どもが母親から自立する」と監督とはズレがあるため、
真相は当時の家庭環境でありがちな母子のすれ違い部分として描きたかったのかもしれません。
地上を支配するジオン軍の実情とアムロに対する母性愛との完全断絶
機動戦士ガンダム第13話では、アムロの母カマリアを中心に連邦軍とジオン軍の実情をリアルに描いているのですが、それだけでは子供達も地味すぎて飽きてしまうので、オープニングで合体するシーンを「空中換装」として描いている点で配慮されている。
筆者の場合、子供の頃に見た感想は連邦軍もジオン軍も腐った大人の集まりであり、ガンダムで暴れまくるアムロの気持ちは、これら全てを全滅させたかったのでは?と思えるくらい、大人の嫌な面々しか感じられなかったのですが、こう思えてしまったのも、
地上を支配するジオン軍とそれに対抗するアムロに向けられた母カマリアの感情が、大人になるほど切実な悩みとして突き刺さってしまうので、人として考えさせられてしまう。
ジオン兵はギレン総帥による「ジオン国民は宇宙のエリートである!」という思想で戦意高揚を称えながら、独立に対し意気揚々としているのですが、現実には連邦軍の末端同様に戦線を拡大しすぎた結果エリート意識も加わり単なる悪い奴らに成り下がっている。
これもホワイトベースが敵の偵察機を発見したことでリュウのコア・ファイターを向かわせ
先手を打とうとしたところ逆に返り討ち、パトロール時間外に来たジオン兵のセリフ、
「敵の戦闘機らしきものがこの辺に着陸したという
報告も入ってる。知っている者はいないか?」
という質問に対し、親の仇を見るような子供や、厄介ごとに関わりたくないという老人達の姿から、ジオン軍もまた連邦軍と同じく、末端は腐った兵士の集まりであることを別の角度から見事に描写している。
感覚から言えば、ジオン兵と子供達のやりとりは第2次世界大戦後に占領された日本でアメリカ兵と日本の子供という位置づけのように思えるのですが、これらも独特の表現で、
ジオン兵A
「ん、僕、飛行機知らないかい?おじさんにだけ教えてくれないかな」
子供A
「知るもんか」
ジオン兵A
「憎まれたもんだな。チョコレートをやるよ」
子供A
「いらないやい、とうちゃんとかあちゃんをかえせ」
ジオン兵A
「おーこわ。ははは、チョコレートを貰いそこなったな、坊や」
と子供をからかうようにたしなめるジオン兵に対し、逆らったら殺される!とビビりながら押さえつける大人と相反して肝心の子供は「ジオン軍は自分達の敵」であることをまっすぐな視点で描写している。
またブライトがリュウが追い切れなかった偵察機を撃墜するように呼び出し信号を
出した際に、あやしいと思ったジオン兵が、隣のおばあちゃんに問いただしても、
「あたしゃ89歳になります」
とボケ老人を演じるので生き残るのに必死な部分を多種多様な部分として表現している。
このことでシーツにかぶって寝ている部分が怪しいと察知したジオン兵が、
「おい女、そこに寝ている奴は何者だ」
とカマリアのベットに寝かせていたアムロのことを怪しいと思ってしまったために、アムロもやらなければやられると思ったのか?必死に隠す母カマリアの対応もむなしく、ジオン兵に対し拳銃を発射!2人いたジオン兵の1人に重症を負わせたことから、
「あ、あの人達だって子供もあるだろうに、それを
鉄砲向けて撃つなんて…すさんだねえ」
と虫も殺せなかった昔のアムロと違うことで幻滅する部分がセリフにこめられている。
アムロからすれば拳銃で撃たないと自分が死ぬという感覚から、
「じ、じゃあ、母さんは僕がやられても
いいって言うのかい。せ、戦争なんだよ」
というセリフから今まで戦い抜いてきた戦争の厳しさもあり、このセリフにその思いを理解して欲しいと込められているのですが、母カマリアからすれば人を殺す!という人間としての常識が許されないことで、それが息子なら余計に許せない行為であったために、
「そ、そうだけど。そうだけど人様に鉄砲を向けるなんて」
という言葉が出てしまうのも、カマリアの中のアムロがまだ子供であるからこそ、
あまりの変化に戸惑いと拒絶を隠せない一面であろう。
それに加え愛人がいたことを考えると、母カマリアは自分本位な考えでしか見られない
女であり、アムロが可愛いなら一緒に地球に残れば良かったと思える点があるために、
それを薄々と感じていたせいか?この後のやりとりでも、
アムロ 「母さん、母さんは、僕を愛してないの?」
カマリア 「そんな、子供を愛さない母親がいるものかい」
アムロ 「嘘をつけ」
と母だけは自分の味方だと思ったのに、自分を認めてくれない葛藤から、
カマリア 「アムロ、私はおまえをこんな風に育てた覚えはないよ。
昔のおまえに戻っておくれ」アムロ 「今は、戦争なんだ」
カマリア 「なんて情けない子だろう」
という形で母との決別をすることになってしまう。
そのため砂丘でホワイトベースとブライトが迎えに来るシーンでも、
「嫌とかじゃないんだ。あそこには仲間がいるんだ
こ、これからもお達者で、お母さん」
と別れた後に泣き崩れる母カマリアを振り返らずにひたすら前を向いて歩くアムロの姿はエンディングの「アムロ~振り向くなアムロ~♪」にシンクロさせるように、良し悪し関係なくアムロの成長を描写している。
結果からすれば、空中換装や局地破壊はホワイトベースとしても消耗戦であり、アムロにも心の休まる時では無かったのですが、これもまた生き残れば人生の些細な一部となって語り継がれるため、人生はなかなか思い通りにはいかない。
富野由悠季氏はそれを子供達に戦争を通して伝えたかったのかもしれません。