富野由悠季氏に作品の概要としてザックリではありますが、一通りお話させていただき
ましたので、良い機会として富野由悠季作品の統括を記載したいと思います。
このブログの管理人であり筆者としてこれまで富野作品の概要を僕なりに感じた感想や
さまざまな分析の結果を踏まえて、独自性を生かしながらも富野氏の考え方を見ながら
ここまで記載して来ました。
筆者自身もわかりにくい点や言い回しが変だった部分など反省すべきではあるのですが、
それ以上に富野由悠季氏も降板させられた勇者ライディーンから酷評の多かった劇場版
Zガンダムまで、一筋縄に天才という形での才能を振るったわけではないことが、作品
の概要で判明致しましたので、今回は統括という形でいろいろとお話したいと思います。
目次
・富野由悠季は劣等感の塊だった?成功の裏に潜んだ燃えさかる嫉妬心。
・何故冨野は「アニメを見るな」と叱咤するのか?作品概要から見る結論。
・「アニメを見るな」という理由は黒富野から白冨野への変化!が原因?
・富野由悠季がこだわる登場キャラや歌詞作成への深い思いとは?
富野由悠季は劣等感の塊だった?成功の裏に潜んだ燃えさかる嫉妬心
富野由悠季という人は筆者自身「ガンダムという凄い作品を作った人」ということ以外
あまり意識して考えたことのない人でしたので、これだけ複雑で濃い内容を思いつくの
だからきっと天才なんだろうなあ~とブログで語る前まではそう思っていたのですが、
実際にいろいろと調べていくと、偏屈で器用貧乏であることが、どこかしら死んだ親父に似ており職人気質であることがあったため、最初に知ったときには好きになれなかった。
この理由も職人というのは1つのことしか出来ない癖に好き嫌いが強く、無駄にこだわりを
持ちながら周りを見ないで1人で突っ走ることを経験から知っているためである。
こういった点は筆者の経験なので職人を否定するわけではありませんが、冨野氏も同様に
似たような部分があり、スタッフや上層部、周りとの調和が取りにくい、気難しい人見たい
なので、気質から災いして最初のうちはなかなかうまくいかなかったらしい。
経歴を見ると、映画作成を志望していたのが、就職活動のタイミングで「虫プロダクション」しかなく、人手不足から脚本と演出を中心に入社することになるのですが、
もともとアニメを作りたかったわけでもなく、映画的センスもなければ、当時連載していた
鉄腕アトムが一番上手く書けるようになった頃には、いろいろな不満や人間関係のまずさが
災いしてしまい、アトムの連載が終わった頃にはフリーとなってしまう。
この時の冨野氏は「さすらいのコンテマン」としてキャラがどう動くのか?を絵で見させる絵コンテが鬼のように早いことで、アチコチで重宝されていたのですが、結局は食っていくために、いいように使われており器用貧乏というイメージのほうが強かった。
むしろいろいろな大物と出会うことで、アニメの奥深さに目覚めながらも、燃えさかる嫉妬心のように劣等感が発生したため、伝説に残る作品を次々に作成出来たのも、これが原動力では?と思えて仕方がない。
何せ手塚治虫さんの下で作成したときに、
「アニメは全部動かさなくても伝えられる」
ということを教わったものの、演出家としての評価を薄々低いことを知っていながらも
どこかしら有頂天になっている部分が強く、アニメ界の偉人と触れ合うことから、
・タツノコプロの創設者でありガッチャマンの作者である吉田竜夫さんからは
一般的な映像演出能力の不足を指摘され技術不足という敗北感を味わう。独創的なデザインとそれを描くための戦略的な考え方も今の自分に足りない
欠点だ!と気づかされアニメは1人では出来ないと悟ったらしい。・未来少年コナンの作者である宮崎駿さんからは全てのコンテを書き直しされ
機動戦士ガンダムを作成した時は「コナンを潰す!」は目標であった。・宇宙戦艦ヤマトの第4話をプロデューサーの西﨑義展さんに強引に引き受け
させられたのでストーリー共々気に入らなかったので手を加えたら大激怒!それ以降に修正したものを提出したのですが、二度と依頼が来ず絶縁。
これも機動戦士ガンダム作成時の原動力となり「ヤマトを潰せ」と逆恨み。
こういったいきさつがあるため「才能を持つ人間には絶対に負けたくない!」という劣等感を持っているのですが、上層部、メーカーの意見で自由に作れない部分や自分の考えを受け入れて貰えない部分が変にこだわる姿勢がと葛藤して悪いほうへ転がってしまう。
そういった数々の失敗や反骨心から偉人の指摘をあえて受け改善しているからこそ
それを修正するように取り組んでは、数々の名作が出来たのだと思えるので、
もしあなたが「あいつは天才だから・・・」と嘆いて何もしないままでいるなら、もっと多くの失敗をしては、その結果から成功することが重要であることを、富野由悠季という偉大な人から学んだほうがいいのかもしれません。
何故冨野は「アニメを見るな」と叱咤するのか?作品概要から見る結論
筆者が「大人のロボットアニメ!トミノイズム」というブログを作成する前に
冨野氏のことを調べて一番衝撃だったのがアニメを見るな!というこのフレーズ。
最初に書いた記事の中にもアニメに携わっている人間が何を?と思えるくらい筆者に取っては衝撃的な出来事でしたので、履歴から最初は「もがきあがいた人生のよう」と記載したのですが、現実には劣等生の塊であり偉人との差を見せ付けられた結果から、
1人だけの偏った考え方では名作と呼ばれるものは出来ないからだと筆者は感じている。
実際にこの点に関して冨野氏もアニメも映画産業全般のように考えており、
「アニメや漫画を好きなだけで入ってきた人間が作るものは、どうしても
ステレオタイプになる。必ずしも、現在皆さん方が目にしているような
アニメや漫画の作品が豊かだと僕は思いません」
と意見しており、修身・道徳、格言など大人としての主張を偏った部分から発し
ないように指導したり、世界文学などの古典を読んで何故それが名作なのか?
この点を通し、その作品でいったい何がいいたいのかを読み取らせるような作品を
作らないと、人としての成長が無いという感覚で経験から伝えているように思える。
そのため「アニメは子供が見るもので娯楽に過ぎず人生の教訓になるものではない」
と称しながらも、どこかしら葛藤をぶつけるように、いろいろな名作を生み出しているのですが、それに関しては次の黒富野から白富野への変化が大きく物語っているのだと思えるので、以下に読み進んでいただけると幸いです。
「アニメを見るな」という理由は黒富野から白富野への変化!が原因?
富野作品のファンであるほど、作風から黒冨野や白冨野など隠語と取られるようなことで有名になっている富野由悠季氏ですが、アニメを見るな!という苦言を言いながらも葛藤をぶつけるような作風にしている理由は、偉人達への反骨心から来ていると思える。
ここでいう黒富野とは、機動戦士Vガンダム以前にあったエゴイズム(利己主義)や相手への恨み、妬みといった部分を闇として捉えること。そういった黒い部分を一気に全滅させる行為から、皮肉を込めて「皆殺しの富野」という異名が付くくらい暗い部分を示し、
ここまでの負の感情を爆発させたアニメも無いことから、今でも伝説的な扱いをされているようですが、これもまた「コナンに!ヤマトに勝ちたい!」と思える部分やメーカーの売れないと話にならない!という部分との葛藤が気持ちとなり作品に乗り移ってしまう。
そんな感覚からアニメだけで自分の考えだけで完結させてはいけないという部分を
過去の戒めとして若い世代に提案しているのだと筆者自身!そう思えて仕方が無い。
実際に富野氏は機動戦士ガンダムを作成する際に好きでやっているというよりもこの後の3ヶ月間無収入になることが怖く、就職難の時につかんだチャンスなので、食っていくには利用するものは全て利用し、出来ないことは人の力を借りないといけない。
そのためにタツノコ時代に売れる法則を吉田竜夫さんから徹底して研究しては、数々の作品に生かし、さまざまな経験や葛藤から成功部分は残し、失敗した部分は才能のある若手を育てていったため、数々の名作を作り上げることに成功している。
また作品の思いというのは思った以上にキャラから影響を受けるため、残虐な作風を取り入れるようになった機動戦士ガンダムF91くらいから体調が悪くなり、機動戦士Vガンダムの最後には、復帰するのに5年もかかるくらい、うつ症状におちいってしまった。
これ以降、自分の主張だけでは限界を感じたことからOVERMANキングゲイナー以降は得意である監修を中心に監督に徹しながら、若手の意見を取り入れたことで、誰も死なない、争いを起こさないように平和的な解決を考えながら、未来を目指して生きるという、
神々しい考えが浸透しているため最近では「白富野」という異名が有名になっている。
このようなことからすぐに理解出来るような表現や安っぽいファン受けする作品を
嫌い本来やりたかった映画作成という感覚でアニメに携わっていると思えるのですが、
これもまた「才能が無い」と悟っていた分!素直に受け入れて改善してきた経験や
白富野までの転移を安易な結論をつけないで欲しい!という願いなのかもしれません。
富野由悠季がこだわる登場キャラや歌詞作成への深い思いとは?
ここまでのお話でますます理解出来ないと思われる方もいるかもしれませんが、そのくらい富野由悠季という人は難解な部分であり、ひょっとしたら、一生理解出来ないのではと思えるくらいに莫大な情報が出てくるので、筆者としても非常に困惑しています。
その理由も「アニメは子供が見るものだから見るな!」でアニメはあくまでも娯楽と言いながらも、自分の作品には意味深なものを複雑に絡めており、その作品のオープニングとエンディングの大半が井荻麟(いはぎりん)として思いを込めるよう作詞しているので、
分析すればするほど職人気質以上に厄介な存在であることに気づかされてしまう。
特に不可思議と思えるのが歌詞である作詞部分と富野節と呼ばれる独特の言い回し。
作詞に関してはオープニングで売れる鉄板である主人公のロボットを連呼させるものを入れつつ、その作品の雰囲気を察知させ、期待度を煽っては、エンディングで戦いでの哀愁を感じさせながらも、予告編につながるように未来を求める旅人のような雰囲気を出す。
あくまでもこれは筆者の感想なので、あなたからすれば違うかもしれませんが、作品の大半がこのような構成であり、世界観を重視していたことから異常なこだわりを持っていると感じてしまうのは仕方の無いことに思える。
また富野由悠季氏独特のセリフの言い回しである富野節も劣等感や他の作品に負けたくないという感情から自然と出たフレーズであり、興奮から語尾が変になったり、面倒くさそうなキャラを位置づけるために、わざと回りくどい言い方をさせる。
強烈なインパクトを与えるために突然!自己紹介をしたり、不自然にフルネームや意味不明な独特の言い回しを交えながら、焦りや緊迫感を生むために、男性が女言葉を使ったり脈絡もなく独り言で冷静さを装うなど、個性を生み出すために独創性を生んでいる。
これもまた一貫して「才能を持つ人間には絶対に負けたくない!」という点が生み出した
副産物だと思えるのですが、人の思考というのは自分でも絶対ということは無いため、
これからもこの点は筆者に取っても書き続けなければいけない課題かもしれません。