機動戦士ガンダム第2話ガンダム破壊命令は戦略的に描写した富野方式

機動戦士ガンダム第2話「ガンダム破壊命令」では、これから主要キャラクターとなる面々が顔見せしながら、それぞれの役目や立場を演じている。


また劇場版でも基本設定として反映されるくらい重要な部分であり、ここを見ればどういった関係性になるのか?

大体が理解出来るので、普通に描写すると説明がクドくなりやすいのですが、ガンダム破壊命令とタイトルが付きながらも、些細なセリフ表現や自然な流れから、それぞれに置かれた立場や役割を無理なく演じているので、見るだけでも見ごたえがある部分ばかり。


そのため1分1秒も目を離してはいけないシーンの連発ですが、アムロ達ホワイトベース側から見た点では大きく3つに分けられると思えるので、この点を中心に分析していきます。

スポンサーリンク

目次

・まるで十五少年漂流記?緻密に計算された富野方式と呼ばれる描写。
・ガンダムにアムロが乗ることを定着させた富野由悠季の戦略とは。
・何故アムロとブライトの関係性は回を増すことに悪化していくのか?

まるで十五少年漂流記?緻密に計算された富野方式と呼ばれる描写

t2-3-01

機動戦士ガンダムで表現されている描写のほとんどは連邦軍側、ジオン軍側の違いは
あれど、ほとんどは「富野方式」と呼ばれる方法で作成されている。


富野方式とは主要登場人物を一箇所に固めては、多少自分本位の意見を言い合いながら展開していくために、閉鎖的空間で置きやすい問題提示や争いなど、トラブルに向き合いながら適切に対処しつつ、その中で人が死ぬことで、間違いを正すという感覚なのですが、


この方式の大元は「十五少年漂流記」から来ているように筆者はそう思っている。


この理由もどちらも、思いもしなかった出来事で事故に会い、一箇所に閉じ込められるので、仲間達と協力をするのですが、立場や考え方の違いから争いとなり、仲間割れを起こしながら対処していくというものなので、十五少年漂流記を見本にしたのでは?

そう思えるくらいに似ているのですが、唯一違うのが富野節と呼ばれる富野氏独特の言い回しや、それぞれの主張でいがみ合いをしているほど、仲介者である人物や、あこがれの人が死ぬことで、後悔から改心して成長するので、意外とエグい部分が多い。


第2話の「ガンダム破壊命令」では主要キャラであるリュウ・ホセイ、ミライ・ヤシマ
セイラ・マス、カイ・シデンや敵であるシャア・アズナブルや副官のドレンなど、

さまざまなキャラクターがそれぞれの性格を特徴としてインパクトのある登場をするのでこの点も見どころになっているのですが、ここでもまた背負っている役割や階級の差などセリフや表情などのリアクションで「現場のニオイ」として描写していることから、


この変化を感じ取れるほど「ニュータイプ」のような感覚でニンマリしてしまう。


そのためサイド7で逃げ遅れた人を探す際に、セイラ・マスとフラウ・ボゥが艦長命令で
探しにいくシーンがあるのですが、エレベータの付近で爆風の中逃げてきたカイ・シデンに
あ、もう他の人いませんでした?」とフラウがたずねるシーンでも、

「し、知らねえな。爆撃の跡をよけながらようやくたどり着いたんだ」


という無責任な態度にセイラが逆上してしまい、

それでも男ですか、軟弱者!
「あなたみたいな人、サイド7に一人で残っているといいんです」


とインパクトのある登場の仕方でそのキャラの特徴を描写している。


特に第1話で負傷したホワイトベースの艦長パオロ・カシアス中佐とブライトとの会話で
ガンダムを動かしたパイロットのことで話題になり、乗っているのがアムロだと知っている
フラウ・ボゥは表情を凍らせるのですが、これも軍法会議での厳しい処分を思わせる。


そういった細かい描写をところどころに入れているため、このままアムロはどうなってしまうのか?などの想像力を書きたたせる作りは、富野氏ならではの計算された作りだと思えるのは筆者だけでしょうか?

スポンサーリンク

ガンダムにアムロが乗ることを定着させた富野由悠季の戦略とは

t2-3-02

機動戦士ガンダムの流れを見ていくと、なりゆきからガンダムにアムロが乗ったものの、民間人であるアムロがこのまま乗り続け、専属パイロットとして、キャメル艦隊のシャア・アズナブルの襲撃に対応するための戦闘要員となってしまっている。

普通ならば極秘軍事機構に触れただけでなく、サイド7に穴を開けたので銃殺刑になってもおかしくは無いのですが、これも富野由悠季氏の緻密な戦略により、アムロを主人公として位置づけるために行ったのだと、筆者はそう感じている。


まずアムロがガンダムに乗ることになった大きな理由は3つ。


1つ目はブライトの大きな勘違いであり、彼はガンダムにアムロが乗っているとは
知らず、正規パイロットの生き残りで誰かが乗っていると思い込んでいた様子。


その証拠にパオロ艦長がガンダムに誰が乗っているかを確認しようとしたところ、

「サイド7でテストをやっていたパイロットでは?」


と確認が取れないまま、アムロに残った資材や関係部品の積み込みをさせていたことで
何の疑いも無く、ガンダムを操作させていたことが作品中でも見られている。


2つ目は第1話でサイド7に入ったザク2機に、リュウ以外の正規パイロットと技師すべてが死亡、あるいはザク撃破時に穴が開いた際に行方不明となり、まともに戦える正規メンバーが10人もいなかったことが、後押しになってしまった様子。


この地点でアムロが15歳の若さで乗ってしまっていることに驚いているブライトが
艦長!降ろさせます」と言っているのに対し、まともに無線の使い方がわからなかった
アムロの行動や現場の混乱で、降ろそうとする行動に移せず、肝心の艦長の意見は、

「パイロットが、・・・生き残っていたらな」


で保留にしては、シャア以下、ジオン軍のスパイ4人が見つかったことから、これらを
追撃でいきなり実践に出ることにより、流されるようにパイロットとして固定された。


3つ目は候補生であるリュウがガンダムに触る機会もなく流される形になっている点。


普通な正規パイロットは軍のものが行うものなので、正規軍人が1人でも残っていれば
必然的に候補生のリュウが行うものだ!
と筆者はそう思えるのですが、主人公であるアムロと
ガンダムとの結びつきが無くなるため、富野氏はここでも布石を打っている。


この理由もアムロをガンダムに乗せることでガンダムに乗せないことはもちろん、正規クルーの大半が、ザクにやられてしまうことで、民間人からのフォローや逃げ遅れた人を助けるという、救護や援助といった部分へ、視点を置かせることでガンダムから離させる。


さらにサイド7に侵入したシャア達を援護している駆逐艦、シャア専用ムサイ(ファルメル)のミサイルに応戦するには、機銃で対応しないといけないために、候補生でありながらも
応戦しないことには軍人とは言えず、ここでも乗る機会を失っている。


またホワイトベースの情報を偵察する際にシャアが見つかったときに、ブライトの「誰でもかまわん、狙撃しろ」の時、リュウ、ハヤト、カイが銃で迎撃しているシーンなどを見ると、

いろんな場所で世話を焼いていたことから、触れる機会は無かったのでは?


さらにその後の話でも「シミュレーションを2度やった」とアムロと同レベルであることや、負傷した艦長を手当、他の民間人へのサポートなど、徹底してガンダムに触れる機会を無く
させた結果!コア・ファイターに収まっているので、このような経緯を見るほど、


いかにして富野氏がガンダムはアムロが乗る!と誘導していたか?


分析すればするほど、理解出来るのでは無いでしょうか?

何故アムロとブライトの関係性は回を増すことに悪化していくのか?

t2-3-03

最初はパオロ艦長の指示で「アムロ君」「ブライトさん」とフレンドリーな感じで進むのですが、回を増すごとに関係性が悪化していく2人の関係性も、機動戦士ガンダムでは、人間関係の葛藤して、複雑な心境のひとつとして描き、進むほど複雑になっている。


特に視聴者の視点ではアムロの目線で語られていることから、まだ2回目の戦闘でいきなり宇宙!しかも相手はジオン軍のエースパイロット「赤い彗星」のシャアなので、何とか撤退にまで追い込んだのに、ブリッジで罵倒されることで嫌な奴だ!という印象から、

今後の関係性がどんどんと悪化していくのですが、ブライトからすればパオロ艦長の指示で仕方なく!という感覚で何度もアムロをガンダムから降ろしたかったので、この点の食い違いが葛藤となり、お互いに吐き出さないことが、後々の大惨事につながってしまう。


アムロからすれば、いきなり命令されて怖い戦場に放りこまれ、スレンダーのザクを一発で葬り、シャアまでも撤退させたのに!と思っていた分、「良くやった!」と褒められてもいいはずなのに、帰ってきた言葉は罵声と説教なので、割に合わないのは当然のこと。


しかしブライトの立場からすれば、自分の上司がパオロ艦長以外死んでしまい、士官候補生の身でありながらも、わずか19歳の若さで、副官と同じレベルで判断を下さないといけないことから、弾切れを起こし、ガンダムの性能に助けられたアムロが不甲斐ない。


また腹を割って話をするほど仲が言い訳でもないし、立場も年齢も差がありすぎたことから、回を増すことに鬱積したものが溜まっていくので厄介な関係性となってしまう。


機動戦士ガンダムの第2話だけでもこれだけの深い富野劇場が繰り広げられるのですが

この関係性は第9話で不満が爆発!第20話くらいまで引きずることになるため、子供を
対象にした作品でこの関係性はどうなのか?そう思えるのは筆者だけでしょうか?

レクタングル(大)
スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加